ABOUT HOSPITAL
福岡赤十字病院退職の後、新博多駅誕生に続いて未だ荒れ地に近い博多駅前4丁目に20床の眼科診療所を開設。新時代に合わせた外来治療、諸検査の充実を図った。
診療所拡充と同時に専用手術室を設け、当時、我が国では未使用だった眼科領域へ手術用顕微鏡導入を行った。特に白内障手術精密化の創始に尽力した。
それ以前の白内障手術は、殆ど失明に至るまで待たせるのが普通だった。
当時の白内障は眼球の半周を切り開けて混濁した水晶体をすっぽり抜き出してオープンのままだったので、術後の危険率は高く、数日の絶対安静が必要だったのである。
それを顕微鏡下でナイロン糸による緻密な縫合が可能となり、安全性が飛躍的に向上したため、手術の適応が著しく拡充された。
緑内障、網膜剥離においても顕微鏡下の新しい手技が導入され、眼科手術精密化の幕開けとなった。
特に、それまであきらめて放置されていた角膜混濁による失明者に開眼の機会を与えられるようになった。
眼科領域の画期的新技術到来と同時に、近接地に60床の眼科病院を新設、移転した。大きい目標として眼科外科、即ち手術による視機能向上、失明防止を主眼とする整備に重点を置いた。
米国で開発された超音波による水晶体の乳化を早々と取り入れ、眼球を大きく解放する従来の方法を変更、ボールペンの先くらいの孔から白内障手術を完成させる方法を採択した。その後、小切開手術の安全性と術後管理の容易さを我が国に普及させた。
パリで開催の国際眼科学会において、白内障手術後の眼鏡、コンタクトレンズにとってかわる人工水晶体が華やかに登場、早速購入して帰国後使用したのが我が国の先駆けとなった。
我が手術室にドイツ製眼科専用手術顕微鏡が設置された。当時最高の機能を持った精密機器は、以来20年間、種々の斬新な新技術に適応してくれたのである。
人口の高齢化による白内障手術の急増に対処するだけでなく、斜視や角膜移植、網膜剥離など広範囲な対応が必要となった。
軟らかい人工水晶体が開発され、3mmの孔から挿入が可能になった。
それ以来現在に至るまで、この方法が続いている。